某所、拳武館高校所有道場にて。
まだ朝靄が地を覆い、人がやっと朝を意識する時分。
青年が一人その場所に近づいていた。
道場。
拳武館という学校が所有するその道場は学校にひとつ、そして様々な場所に点在している。
ここは、学校に最も近い道場。
彼は「仕事」を終えた後だった。今回の「仕事」は必ずしも順調とは言えなくて。
終わった頃には朝日が顔を見せ始める時分となっていたのだ。
学校に行くには早すぎ、家に帰るにも十分な時間がなくて。
だからまるで身を潜めるように、この道場に向かっていた。何よりもその身を一度清めたかった。
けれど、青年は道場の入口の約五歩手前で足を止める。
そして怪訝な顔を道場の方に向けるのだ。
気配。
人の…?
その気配は研ぎ澄まされた鋭利で純粋な色を孕む。しかし、この道場を利用できる人物で心当たりはない。
そう考えた次の瞬間、青年は緩めた気を引き締めた。息を、気配を潜めて戸口へ近寄る。
そして音を鳴らさぬようにそっと戸を引く。
その瞬間、彼は言葉を失った。
戸は五指程度しか開かれていない。
その向こうでは、白い胴着が舞う。
銀の刃が空中でしなやかな弧を描き
追うようにまだ短めの黒髪が銀の刃と同じ弧を柔らかに描く。
時折踏み出された足が地面に踏み落とされ、低い音が清らに響いている。
朝日が朝靄を白く光らせ、道場の高い所にある木の格子付窓より降り注ぐ。
その表情は初めて見るものであったが、その顔は見慣れたものだった。
予想外の人物だと言っていい。
「…久条さん?」
低い、呟く声が小さく響く。
久条色。
それが彼女の名。そしてその呟きに反応するかのように、久条が動きを止めた。
ゆっくりとした所作で振り返る。
「壬生さん?」
動作と声は同時だった。
姿を見ずとも的確に「消した気配」を詠みとっている。
壬生と呼ばれた青年―壬生紅葉―に問うでもなく
誰に言い聞かせるでもないその呟きは、酷く水のように冷えていた。
呼び声に応えるように、壬生は戸を最後まで開け切る。
開けた視界の先、彼女の振り向いた顔に張り付いたものは、やはり壬生の知らない表情だった。
しかしそれも瞬時に消え去る。 久条は壬生を見た時に良く見せる苦笑を浮かべ困った顔をする。
「どうしかした?」
かちりと刀が鞘に納まる音が響く。
それが合図のように鋭利な気配は収められ、普段の穏やかな気だけが漂う。
「…君こそ」
すぐに声は出なかった。
出せなかった。
空気を掴もうとした時の不確かさに似た感覚に意識がついていかなかったのだ。
そんな考えを振り払うように思考を無理矢理動かす。
久条色と言う人物。
拳武館高校では一般生徒扱い。
しかし一般生徒よりも、暗殺組の誰よりも館長である鳴瀧冬吾の信頼を勝ち得ている。
彼はそう、感じている。
旧家の出で、幼少の頃より武術の心得があり武術指導に借り出される事も時折ある。
しかしその時の彼女は平素のそれとなんら変わりない。
だから彼が拳武館高校に入り三年間が過ぎた今でも、彼女への評価は変わらないし
彼女の印象が変化したという事はなかった。
だからこの様な姿は知らない。
これは誰なのかと、まだ頭の何処かで信じられないと訴えている。
そんな壬生の思考を余所に、久条が応える。
「それもそう…か。少しね、早くに目が覚めてしまいまして」
「…そう」
「ん。で、壬生さんは…?」
「…君と、同じだよ」
他に言いようがなかった。
久条が何処まで知っているか分からない以上自分から明かすなど言語道断であったし
明かす気も彼にはなかった。
しかし嘘は何処か空々しく道場に響いていたから。
壬生は耐えれなくなって、そっと久条から視線を外す。
「…そか」
決して、いつものように苦笑を浮かべた彼女の顔が泣きそうに見えたからでは、ない。
「じゃあ」
「…?」
暫くの沈黙を経て、久条が明るく声を上げた。
壬生が思わず顔を上げると、久条は笑みを浮かべていた。
それはさっき見えた表情ではない。いつもの、しょうがないとでも言いたげな、そんな顔。
「私はもう出るからゆっくり使って。鍵のある場所は知ってる、ね。」
そうしてすっと久条の素足が壬生の居る場所とは違う方向を向いた。
久条は壬生が入ってきた外への直通入口とは違う出入口に足を運んでいた。
其処は建物内に繋がっており、更衣室等の部屋も其方の方にある。
道場は、否、久条の周りは先程よりも強くなった朝日を靄が反射して白い光となりつつあった。
その様子を浮世離れした気分に揺られ、何も言わず見ていた壬生をかたりと鳴った戸が現実に戻す。
「……夢だよ。全部」
そして彼女は、それが真実と言うかのように
音も立てずに消えると、戻らなかった。
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